1月から始まったNHK大河ドラマの『いだてん』がとても面白い。
長丁場の大河ドラマや朝ドラの場合、最低でも10話くらいは観ないと、その後も視聴したいかどうか判断しかねると私は思っているのですが・・・・
今日、ネット記事で「『いだてん』テコ入れ」という記事を読みました。
NHKの定例会見での発言らしいので、芸能記者の憶測記事ではないようですが・・・・
なんだか残念です。
ドラマの途中に『テコ入れ』って私は反対です。しかもなぜそれを宣言してしまうのかな。
かつてアメリカドラマを観ていると、テコ入れとして急に主要人物がいなくなったり
まだキャラクターも定まらないうちに新たな追加キャストが入ってきたり。
明らかな「テコ入れ」を感じると、話しの流れの無理矢理感が見えて白けてしまうことが度々あった。
でもそれは、『アメリカドラマあるある』だからなぁ〜という感じで半ば楽しむように観るようにもなったけれど・・・
最近、日本のドラマもそんな空気が度々あって、
大抵は「打ち切り」と言われて回数を減らし、唐突な終わり方へ持って行くパターンなのだけれど、
それも創り手にしてみたら伝えたいことも伝えきれない無念さがあるだろうに・・・。
大河ドラマの場合は、まだまだ先が長いので早めにどうにかしなくては・・・っていう焦りもあるのだろうか。
『いだてん』のテコ入れ理由が「時代が前後に交差してわかりにくい」との事らしいのですが
楽しく観ている私にとっては、その別時代の平行感覚に魅力を感じている。
とにかくワクワクする。
クドカンドラマは時々この手法があって、最近では『監獄のお姫さま』がそうだったのだけれど
時間が遡ったり、交差することで登場人物の心情や時間軸の確認がなされて、
「謎が解けた」という感覚に面白さを感じる。
だからこの『いだてん』に関しても、まだ10話も満たない間にその伏線を回収するのは早すぎるし、
初回の「羽田のかけっこ」のいきさつも、
5回目くらいでちゃんと解決されたときには「お見事」と思って観終わった後に拍手をしたくなったくらいでした。
たけしの滑舌が悪いとか、たけしと森山未來の語りが交差してわかりにくいとか
慣れればそこに面白さを感じるはずなのだけれど・・・・
前回の金栗四三と、森山未來(若かりし頃の古今亭志ん生)が大輪の花火をバックに橋の上で交差するシーンは、
映画館の大画面で観たい。と思うくらいワクワクした。
最近ウケるドラマというのは、『平面的』で一話完結。が多いと思う。
多面的な群像劇や時間軸が交差するような想像力を必要とするストーリーは受け入れられないのかもしれない。
だとしたら、観る側の想像力の欠如という面もあると思う。
そもそも今回の『いだてん』は
『大河ドラマ』という枠からすると、まるで毛色が違って受け入れられない人は多いと思うけれど
それは最初からわかっていたことではないのかな?
みんなが知っている歴史の平面図を区切ってのストーリー展開は確かにわかりやすいけれど
「想定内」の物語の繰り返しだけを観たい人ばかりじゃないはず。
新しい大河ドラマに挑戦していて、それはそれで好意的にとる人も多いと思う。
何をもって、どこの誰の発言に基づいて『厳しい評価』とするのか・・・
昨日も書いたのだけれど、ネットでの煽り記事やただの野次馬の感想でドラマの足の引っ張り合いはやめてほしい。
そんなものに煽られないでほしいと思ってしまう。
なにより・・・・
脚本家の方をはじめとして創っている人たちは、最終話まで見据えて創っているはずで、
特にクドカンはその辺が巧みなのだから、それを崩さないでほしいと願っている。
伝えたいことがある人であればあるほど、細かな描写や伏線をちりばめながらストーリーを設計図のように組み立てているのだから・・・・
大河だけでなく、回数の少ないどんなドラマであっても、創り手側の意志ではない「いじり方」はするべきじゃない。
特に、一般受けを良くしようと安易な対策は、観ている側には案外透けて見えてしまうもの。
散々な言われようだった『平清盛』も、
衣装や画面が薄汚れていて見栄えが悪いとか言われたけれど、好きな人は評価していたはずだし、好みの問題だと思う。
王道の大河、戦国武将がお好きな方は、次に好みの武将が題材になるまで観るのをおやすみすれば良いのに。
最近のドラマに関しては、言いたいことはいっぱいあるけれど
私の感覚が古いのかもしれないなぁ。と我が身を反省したり、ついていけないものに関してはスルーしたり・・・
ドラマ好きな友人とも感想がまったく二分することもあって、それはそれでその理由に「なるほど〜」と思うことも多々ある。
今の時代『万人受け』に終始しようとすると、つまらない作品ばかりが生まれると思いますよ〜〜〜。
・・・・と、
ドラマ好きは朝から叫びたくなってしまったのでした(笑)

