『毒親』と言う言葉はどこから世の中に認知されていったのか?
私は本のタイトルから知ったのだけれど、最初は「うわっ。強烈。」という印象で
自分が親との関係で思い悩むことがあっても、自分には当てはまらない、と思っていました。
自分の親を「毒親」と言い切れる人は余程の事をされている人だのだろうと思っていて、はじめは他人事のような感覚でいました。
ところが、その類の本を手に取ってみたら「そこまでの意味」ではなく
自分にとって多少なりともマイナスになってしまう親、良い影響を与える存在ではない親、を総称としてそういった日本語を作り出したのか・・・と理解しました。
実際それらのタイトルがついた本を読んで思う事はあるし、理解できて気持ちが整理された事は多い。
そして、先日また『毒親』タイトルの本を購入しました。
これまた強烈タイトル
『毒親の棄て方』
『毒になる親』の作者が書いた回復マニュアル本
それにしても・・・
はじめは衝撃的なコトバも、今はそこそこ見慣れてきてしまっている。
けれどもやっぱり『毒親』というその2文字は、私は違和感がある。
私自身が『子の立場』で、親に対しての違和感がある場合は『毒親』と定義されることで、関係を見極める事ができるきっかけになる。
けれど、もし自分が『親の立場』であった場合、子供から『毒親』と認識されるのはかなり拒否感があるだろうと思う。
ましてや、それらの本で言う『毒親の定義』からすると、親本人はそんなことは思っていない。もしくは、薄々感じていても認めたくないから。
最初に手にしたのはスーザンフォワードの『毒になる親』という本なのだけれど
直訳だと『有毒な親』
かなり年季が入っていますが・・・こちらです。
この本が認識されてから・・・日本語訳で『毒親』という日本語(造語?)ができあがったのかな、と思います。
けれど・・・こういった造語的な日本語は、世の中に認知されていくと解釈の違いが生まれていくのでコトバだけが強力でも違和感を感じるようになっていく。
しかも『親』という誰もが存在を感じる『人物』であって、多くの人が自分もその『親』という存在になりうる・・・
その『人物』に対して、個人的攻撃のために認識して使われる可能性もある。
なので、このコトバが一人歩きしていくのは気がかりではあります。
そういう意味では、自分がなにかしら親との関係に違和感をもったり、自分が親の立場で子に対しての接し方に疑いを持った時に
ためらわず、拒否感をもたず、この『毒親』の定義を多少なりとも理解して家族関係に役立てる方向に使ってほしいと思ってしまう。
それくらい、このスーザンフォワードさんの『毒親系の本』は具体的だし、わかりやすい部分が多いと思います。
この手の本は、共感できる面も必要ですが客観視できる構成と文章も重要だと思うので、
そう言った意味では、「和訳」によって一歩引いた文章で読むことができるように私は感じています。
その後多く発売された簡単に読める『毒親タイトル本』では伝わりきれない本質とか・・・・
まあ、和訳された文章は読みにくいのですが。
今回購入した『毒親の棄て方〜娘の為の自信回復マニュアル』はより具体的ないどうしたら良いのかが書かれているようです。まだ全部読んでいませんが・・・・
毒親というコトバに何かしら実感がある方、理解はしているけれどどうしたら良いのかわからない方には新たなステップアップ本になるかもしれません。

